彼女の福音
参拾伍 ― 仁義なき戦い ―
「前回までのあらすじ:岡崎家に遊びに来た鷹文、河南子、春原、杏、芳野さんと風子。男性陣の考慮したむふふなゲームは、いつの間にか怪奇で禍々しい空間を作り上げ、犠牲者が一人、また一人と増えていく。そんな中、とうとう生き残りの間に、馬鹿が出現した。生き残りの運命や如何に?」
「……それってあからさまな現実の歪曲だよね、にぃちゃん。本当はそんなホラーな話じゃないよね?……と馬鹿が触れ回っておりますが無視してください」
「うん、無視するにゃ」
「って、ここで語尾が戻ってくるんだっ!?つーか無視するなっ……と馬鹿が触れ回っておりますが無視してください」
はぁ、と僕はため息をついて崩れ落ちた。
「馬鹿?誰のことだ?」
ねぇちゃんがいつもの天然で首をかしげると、河南子がうしゃしゃしゃと笑う。
「鷹文のことですよ、先輩」
「私の弟は、馬鹿だったのか……」
がくぅと膝を屈して落ち込むねぇちゃん。あ、もしかして期待してた?ごめんね。
「じゃなくて、僕は馬鹿じゃないよっ!と馬鹿が触れ回っておりますが無視してください」
「まぁ、どうせ鷹文の言うことなんて当てにならないしねぇ」
「陽平が言えたことじゃないでしょ」
「ひどいっすよねっ、あんたっ!!」
「あんたじゃないでしょ?ほら、あたしのことは何て呼ぶんだったっけ?」
「……ご主人様」
屈辱の極みだと言わんばかりに春原さんがそう言うと、杏さんが勝ち誇ったように笑った。
「さてと、ここいらで杏ちゃんには悪いけど脱落してもらおっかなぁ、なんつって」
河南子がいつもの調子で言うと、不意に不穏な空気が床の間に漂った。
「あら?ごめんね河南ちゃん、あたしてっきり次は河南ちゃんの番だとばっかり思ってたんだけど?」
「いえいえご冗談を。決勝はあたしが先輩を倒して勝利。これで決まりなのです」
「馬鹿なこと言わないでよ、それ、陽平の特権なんだから。あたしが智代に勝って勝者の座をいただく。これよこれ」
「何にしても私の敗北は確定済みなのか」
ねぇちゃんががっかりしたようなため息を漏らした。
「そんにゃことはにゃいっ!智代にゃら絶対に勝つと俺は信じてるにゃ」
「……ありがとう朋也。やっぱり朋也は私の味方なんだな」
「当然だにゃ」
熱い視線をにぃちゃんとねぇちゃんが交わす。とうとう視線だけで二人の世界に入っていく方法を見つけたらしい。
「でも岡崎、智代ちゃん負けたらさ、いや〜んな格好が見れないじゃん?」
「それは大丈夫にゃ。あとでじっくり堪能させてもらう……ぶにゃあっ?!」
神速とも言える早業で杏さんがにぃちゃんの額に辞書を生やした。
「あんたは何不埒なこと堂々と宣言してるのよっ!」
しかし、坂上家で育ってきた僕に言わせれば、それは致命的な間違いだった。こんな切羽詰まった状況で、杏さんは河南子から目を離すべきではなかった。突っ込みのためであっても、隙を作るべきではなかったのだ。
何時如何なる状況であっても、敵からは目を離すべからず。坂上家家訓第一条。
「殺っ!!」
獰猛な猫のように河南子が杏さんからカードを奪う。河南子の手持ちのカードは減らない。しかし杏さんのカードはこれで二枚。
「アイツなんかに構ったばっかりに負けるなんて、杏ちゃん甘あま〜」
「くっ……でも、まだ勝機は……」
そう言って杏さんはねぇちゃんから札を取り、そして目をつむった。
「……っ」
その手から零れ落ちる二枚の札。ねぇちゃんが河南子からカードを取っても、杏さんの脱落は防ぎようがなかった。
「陽平……ごめんね。あたし、頑張ったけど、だめだったみたい」
「……」
「そんな顔しないの。あたしの彼氏なら、もっとしゃんとしてあたしの最後看取ってよ」
「……ご主人様」
「って、雰囲気がぶち壊しじゃないのっ!!」
ほとんど八つ当たりとも言える辞書の投擲をくらって、春原さんは崩れ落ちた。
「じゃーねー杏ちゃん。覚悟はいい?はっずかし〜いコスプレの時間が待ってるからねぇ」
「せいぜい今のうちに笑っておきなさい。あたしの敵は智代が討ってくれるから」
「私を巻き込むな」
河南子が無慈悲にも杏さんから最後のカードを引き抜き、そして杏さんは敗北した。杏さんは潔く自分の箱を開けると、指示書をじっと読んで居間を退室した。
「あれ、行っちゃった」
「着がえにでも行ったんだろ。さて、河南子」
そして二人は対峙する。ねぇちゃんは射すくめるような視線で河南子を貫く。
「どうやら私を倒すのが目的のようだが、あいにく私はこれをただのゲームと捉えることができなくなった」
「そんなに恥ずかしい格好が嫌ですか、先輩。ま、諦めてここにいる馬鹿の目の保養になってくださいよ」
「馬鹿って……僕のことか……僕のことかぁああああああ!!……と馬鹿が触れ回っておりますが無視してください……」
ああ、何だか僕、生きる意志を無くしちゃった。
「恥ずかしい格好なんかどうでもいい。ただ」
そこでねぇちゃんは誇らしげに、そして嬉しげに笑った。
「朋也がな、私を応援してくれているんだ。例え世界が相手でも、朋也が応援してくれるなら、私は勝つ」
「……いいよ。先輩がそう言うんだったら、あたしもあたしの全てを賭けてあんたを倒す」
河南子がにやりと不敵に笑う。
「受けて立とう。こい、河南子」
その時、襖が開いて僕達の目の前に着替えてきた杏さんが戻ってきた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「なっ、何よっ」
「……」
「……いい」
赤い襟の、白地のポロシャツ。
それは杏さんの女性らしいボディラインをくっきりと主張させていた。そして、その裾から覗く、赤い逆三角は、もう今ではめったに見られない、伝説のあれだった。
「岡崎、やっぱりご主人様は体操服が似合うよねっ!」
鼻息荒くにぃちゃんに力説する春原さん。にぃちゃんはそれに対してため息をひとつ。
「あれはお前の差し金かにゃ……」
「というわけで……ご主人様ぁっ!!」
春原さんが杏さんに向かって飛んだが、すぐに迎撃される。
「欲情して飛びかかるんじゃないわよ」
「……ふふ、ふふふふふ」
しかし春原さんは顔を半分隠しながらも、おどろおどろしくも禍々しい声で笑った。
「な、何よ」
「僕をなめちゃいけないね、ご主人様。これしきの傷、その神の領域たるぶるまぁのためならいくらでも耐えてみせる」
じりじりと迫る春原さんに、杏さんは本能的に何かを察知したのか、ばっと辞書や童話全集、料理本に古典を取り出して戦闘態勢を整えた。
「来るんじゃないわよ、陽平……来たら、わかってるわね?」
「はぁはぁ……はぁはぁはぁ……」
そして、緊張の糸が切れ、
「ぐぅぉぉおおおしゅじぃんさぁむぅぅううわぁあああああああああああああああああっ!!」
春原さんが咆哮しながら突撃を開始した。それに瞬時に即応する杏さん。矢の如く降り注ぐ辞書や古典に、欠損していく体。飛び散る鮮血。しかしそれでも春原さんは足を止めない。片足を失えばその足を引きずり、両足を失えば腕で這い、両腕を失ってもまだ前進する。傷だらけでも、ぼろぼろになっても、己が求める光を目指して、止まることは決してしなかった。
「……もらったぁああっ」
そして最後の力を振り絞って春原さんは胴体をバウンドさせて飛んだ。勝利は目前だったのだが
「……くっは……」
「あたしにこれを使わせたのは、男じゃあんたが初めてよ。誇りに思いなさい、陽平。さすがはあたしの彼氏よね」
「杏……最後に……いい夢……見させてもらったぜ……」
感情を押し殺した声で、最後の砦 − 鉛の辞書を春原さんに命中させた杏さんは言い放った。その言葉を聞きながら、春原さんはふっと笑い、そして沈黙した。それを最後まで見ていた僕の頬を、熱い涙が伝う。僕は今、猛烈に感動している。
「春原さん……僕、このことは決して忘れないよ……と馬鹿が触れ回っておりますが無視してください」
「ああ……俺は忘れにゃい、この一分一秒を……っ!!」
「真の漢、春原陽平に敬礼でちゅっ!!」
ざっ、と足を揃えて僕達はモザイクのかかったそれに敬礼した。
「……それはともかく、早く決勝始めちゃいなさいよ」
「あ、ああ。そうだな」
我に返ったねぇちゃんが河南子からカードを一枚取り、そしてそれともう一枚のカードを捨てた。河南子も同じようにカードを取り、同じように捨てた。二人しかいないので、カードがなくなっていく速度が俄然早まった。
「これって、もう確率の勝負だよね、にぃちゃん……と馬鹿が触れ回っていますが無視してください」
「いや、違うにゃ」
険しい表情でにぃちゃんが答えた。
「二人とも、己の全感覚を研ぎ澄まして、第六感を行使して戦ってるにゃ。もう、これは俺達がどうこう言える状況じゃにゃい」
自分の姉と彼女がいつの間にか人外の戦いに身を投じていることに少なからず鬱になりながら、僕は二人を見守った。というか、にぃちゃんは平気なんだろうか。
「にゃに言ってるんだにゃ。智代はもともと普通じゃにゃいくらいにかわいいにゃ」
「……あーそうですか」
そんなくだらないことを言っている矢先に、勝負は山場を迎えていた。
「!!」
「……ふっふっふ」
急に河南子が勝ち誇った笑みを漏らした。もしかするとねぇちゃんの持っていたババを引いたのだろうか。ねぇちゃんも奮闘するが、どんどん追い込まれていく。そして勝負はどん詰まりに。ねぇちゃん、手持ちの札は一枚。河南子、ババも含めて二枚。勝利か敗北か。栄光か屈辱か。二つに一つ。
「……」
「……」
黙って睨み合う二人。そして
「……これだ」
ねぇちゃんは恐ろしく澄んだ声でカードを引いた。
「っ!!」
河南子が悔しげな顔を見せる。どうやら今度はねぇちゃんがババを引いたらしい。これで形勢は逆転した。再度舞い降りる沈黙と緊張。その中で河南子の指が伸びて
「……」
一枚のカードを選び
「……」
引いた。
静寂が二人の間に訪れる。そしてそれを破ったのは
「……ふっふっふっふ」
「……ふふ」
二人の笑い声だった。二人は相手から目を逸らさずに笑い、そして
「あーっ、負けちまったぜバーローっ!!」
河南子がカードを放った。
「でもよかったじゃん。最後に残った箱がねぇちゃんので」
「何だ鷹文、てめーはあたしの少し恥ずかしげな格好見たくなかったのかよ」
「え、見てよかったの」
「見たら殺す」
「やっぱそうなるのかよ」
ため息をついて、僕は改めて語尾のない会話をありがたく思った。ちなみに、ゲームが終わった時点で罰ゲームも解除されたので、にぃちゃんや芳野さんが泣いて喜んだのは言うまでもない。春原さんも草葉の陰で喜んでることだろう。あ、でも杏さんのブルマがなくなるから残念とか?え?まだ死んでない?嘘ぉ。
「にしてもねぇちゃんらしい罰ゲームだね」
「あたしに情をかけたことを、いつか後悔させてやるぜ」
「させるなって。だいたい、河南子もまんざらじゃないだろ」
「ん。まあね」
ねぇちゃんの罰ゲーム、それは以下の通りだった。
「近くのコンビニで全員分のデザートを買ってくること。恋人・保護者・被保護者の同伴を許可する」
地図まで書いてあるところがねぇちゃんらしかった。どっかで「風子、祐介さんの保護者じゃないです」「そりゃそーだ」というような話が聞こえた気がするけど、にぃちゃんの例に従ってスルー。
「こーなったら先輩がお腹壊すまでアイスを買って買って買いまくってやるぜ」
「僕の財布が空にならない程度にね」
「ん?そのためのクレジットカードじゃないのか」
「違うよっ!!」
何でそうなる。つーか、借金してまでアイス買いたくないよ。つーか、それってどんだけ?
「だいたいさ、何で最後の方杏さんと競ってまでねぇちゃんと対決したがってたのさ」
すると河南子はうーん、と考えるそぶりを見せ、僕をちらっと見て、ふっと笑った。
「まだ、追いかけてるから、じゃん?」
「追いかけてるって、ねぇちゃんを?」
「ん。まーね」
知らなかった。河南子にそんな趣味があったとは。
「あのさ、知ってると思うけどねぇちゃんにはにぃちゃんがいてさ、そもそも女の子同士っていだだあだだだあだ」
話の途中で足をぐりぐり踏みにじるのは彼女としてどうかと思う。
「うっさい、馬鹿文。そういう話じゃないんだって!」
ついでにぐーぱんしてきやがった。そしてアイスがいっぱいの買い物かごを僕に押し付けてきやがった。
「あたしが追い求めてるのはね、あの人の強さだよ」
「強さ……ね」
「あの人にはまだまだ敵わないなぁって。いろんな意味で」
そこで河南子が意味深な笑みを浮かべて僕を見た。
「何だよ」
「べっつに。早く払ってこい。アイスが溶けちゃうだろ」
「相変わらず人使いが荒いよね」
そう言いながら僕はレジに向かった。
帰り道、僕は隣でご機嫌そうにでたらめな鼻歌をうたっている河南子を見た。
「何だよ」
「いや。ただ……」
「ただ」
「河南子って、いつも僕にくっついて回ってるよね」
「あたしがいなきゃ馬鹿文クンなぁんにもできないからだろ」
「……そのあだ名、定着するんだ」
そう。河南子はいつも僕にくっついて回ってる。
僕が陸上部の連中の大会を見に行ってる時も。
僕がにぃちゃん達のところに遊びに行く時も。
僕が困ってる時も。
僕が怒ってる時も。
僕が呆れてる時も。
僕が笑ってる時も。
僕が疲れてる時も。
そして、僕が誰かを必要としてる時も。あの夢から覚めた時も。
「河南子」
そんな、調子良くて馬鹿で乱暴で意味不明でとんでもなくかけがえのない奴の名を呼んだ。
「だから何なわけ」
「いや……さんきゅ」
ばっきゃろー、と河南子が小さく呟く声が聞こえた。